現実(超)拡張

Augmented (hyper)Reality: Domestic Robocop from Keiichi Matsuda on Vimeo.

この動画を見て、身体性の獲得と消失は同時進行的に起こり得るものだと改めて感じました。

ARは、使い方次第で身体の限界を拡張したり、失われた自由を再度手にするために相当役に立ちそうですが、一方で、Max Headroomで妙な薬入りのハンバーガーを食べ続けながらカウチでバーチャルなTV世界に入り浸ったまま帰ってこなくなってしまった老人達の夢の世界を思い出しました。

ブランディングレイヤーの可視化もこの動画の大きなテーマのようです。
AR(Augmented Reality)は拡張現実と訳されますが、情報はずっと以前から確実に現実にオーバーフローして来ています。
振り返ると、CI・VIの手法で管理されたロゴマークが商品のパッケージに印刷され、大きな電飾看板が街角のビルに取り付けられるようになった時点で、既に私たちの周りにはブランディングレイヤーが張り巡らされていたとも言えます。それが物質を纏う必要がなくなって更に過剰に主張しはじめる可能性を見せてくれています。
ちょっと前まではメディアアートとして認識されていた世界が、一気に広告等の結構泥臭い世界に持ち込まれてくる。ある部分ではビジネスチャンスが確実に生まれるのだろうけど、人間にとってはノイズ量が格段に増加して疲れちゃいそうに感じます。TVとかPCモニタとかのフレームがあった時には静謐なCMにだって意味があったし、うるさいCMが続けばそこから目を逸らしさえすれば良かったのだけど、逸らした先にもその行為自体をトリガーとした新しい情報が表示されたりすると相当鬱陶しい。。。

メディアリテラシーという言葉についても、使いたい情報をどれだけ上手に利用できるかどうかという意味の比重よりも、利用したくない情報をいかに適切に遮断することができるかという意味の比重の方が高くなっていくのかもしれません。

また、自然な動作をそのまま受け入れるユビキタスでタンジブルなインタフェースは、曖昧性をどこまで受容すべきかをより一層問われていきます。現実をそのままラフに操作できるようになることは、注いだお湯がこぼれるとか、指示した覚えのない扉を開いてしまうなどといった危険とユーザーをダイレクトに隣合わせにさせてしまう可能性をも持ってきますから。制限だらけで融通の利かないGUIというのも私たちをそれなりに混沌から守ってくれているのかもしれないって、逆に実感できました。