「雑誌」というメディア-2

7月2日に書いた「「雑誌」というメディア」の続き。

第参回天下一カウボーイ大会対談という記事があって、 懐かしい時代から始まって近未来まで、 いろんな意味でとても興味深い内容が書かれている。
http://wccc.onosendai.jp/entry/1733/

最後の7ページ目に雑誌の話がちょっとだけ出ていて、
「ああ、なるほど。雑誌に求めてる部分ってこの辺りか…。」
と思った箇所がある。

清水亮さんの言葉を引用すると、

僕 が月刊アスキーを読んでいて楽しかったのは、まず広告がけっこう楽しくて、そのあとニュースがあって、特集があって、疲れてきたところになぜ か哲学者がMS-DOSをどう使うか、みたいな話が載っていて、スーパーコンピュータがどうのとかニューラルネットワークがどうのって話が載ってて。 ニューラルネットワークっていう言葉自体を知らなかったらそもそも興味のもちようがないし、哲学なんてさらに縁遠いと思うんですけど、そうやって幕の内弁 当的に作られていることで、「結構面白そうじゃない」ということになる。僕はそれが雑誌の重要な機能だと思っています。最近の雑誌は読者のほうを向きすぎ ていて、ある意味無駄がないんですけど、キーワードを拾って次につながっていく、ということがなくなってきてる気がします。

キーワードを拾って次につながることはネットで代替出来ている気がするけど、そこには雑誌ならではの強引な『幕の内弁当的』な構成は見あたらない。新聞の紙面構成についても同様。

文脈は前後するけど、 遠藤諭さんの

僕のイメージでは雑誌というのは、「学校」なのですよ。普通の学校ではコンピュータの進歩に追いつけないから、教えられない。教科書にも載っていない。それを教えてくれる学校が「雑誌」なんですよ。

という発言が雑誌というメディアのひとつの大きな力を表現している。

そして、清水さんの

blogなんかもそうだけど、読者目線不在の記事がどんどん増えてきてる。僕は頼まれて雑誌に記事を書いたりするんですけど、編集者の人もあまり手を入れたがらないんですよ。なにか、メディアって言うもの自体がどんどん変質してきている。

という発言や 、古川享さんの

僕 はね、世の中にアピールするためには、個のポテンシャルをつなげて引き出す場っていうのがもっと必要だと思う。(略)そういう、可能性と可能 性をつなぐ場みたいなものが、昔はあったのになんでなくなっちゃったんだろうと思ったらさ………アスキーがなくなったからだよ!

という発言が、 雑誌メディアの崩壊の理由の一つを語っているのではないかと思った。